読書の旅

私にとって「読書」とは何かを考えます。

錦繡(宮本輝)

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美しい。

とにかく言葉が美しい。
書簡体で綴られたこの小説の最大の魅力は、日本語の美しさであると思う。
こんなにも美しい日本語がこの世に存在したのかというほど、感嘆した。
一組の男女の往復書簡であるから、漢語体で書かれたような堅苦しさがない。
平易な日本語を使っているのに、紡ぎ出される文章の美しさに舌を巻かずにはいられなかった。

「前略 蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再開するなんて、本当に想像すら出来ないことでした」

女が送った一通の手紙は、それまで止まっていた二人の時間を動き出させる。
お互いの知らない過去を手紙で埋め合うことで、次第に二人は「今」に目を向けられるようになる。
互いに対して抱いていた思い込みは、相手にとっての真実とは違っていた。
少しずつ掛け違えていたボタンが、なおっていくような感覚。
読者は、二人の手紙を読みながら、手紙の宛先の人間になったつもりでその真実を知っていく。
掛け違っていったボタンが直っていっても、二人は人生のなかでは交わることがない。
けれど、手紙のなかでは、最初に互いの心に渦を巻いていた怒りや哀しみのようなものが次第に色が薄くなっていくのが分かる。
決して消えるわけではない。けれど、何かどす黒い得体のしれないものが、やわらかな光に包まれた明るいものになっていくのだ。
「みらい」はどうなるかわからないけれど、「今」を見つめることができるようになったのは紛れもなく手紙を綴ることによって得たものだ。

それが女のこの手紙に表れている。
「過去なんて、どうしようもない、過ぎ去った事柄にしかすぎません。でも、厳然と過去は生きていて、今日の自分を作っている。けれども、過去と未来の間に「今」というものが介在していることを、私もあなたも、すっかり気づかずにいたような気がしてなりません。(p192)」


読後のこの感覚を心のなかにしまっておきたいので、ここらへんで。


はる


追記。
京都嵐山で偶々友達と入ったおしゃれな古本屋さん(ロンドンブックス)で買った本です。以前より、そのお友達に薦めていただいていた本でした。
その本を手に入れるまでのエピソードって、なんだか、その本をより一層愛着あるものにしてくれますね。

ぼくの小鳥ちゃん(江國香織)

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冬の朝、ホットコーヒーを飲みながら窓辺で読みたい本。

主な登場人物は、ぼく、小鳥ちゃん、ぼくの彼女である。
ある雪の朝、ぼくの部屋に小鳥ちゃんがやってきた。
この小鳥ちゃん、ラム酒のかかったアイスクリームが好きだっていうから只者じゃない。
しかも、妙に色っぽい。
小鳥ちゃんは、彼女がぼくの部屋に来ると、決まって写真立てを倒す。
素直になれないところがいじらしい。
おいおい、ぼくよ、なぜそんなにもスムーズに小鳥ちゃんを招き入れてるのだ?と彼女だったら思ってしまいそう。
ぼくと彼女が手をつないでスケートをすれば、小鳥ちゃんは不機嫌になり、ぼくは小鳥用のスケート靴を作る。
なんだろう、この関係・・・恋ではないけど、ふしぎな感覚。
小鳥ちゃんが階上の家へママレードを煮た日に行っていることを知って、微妙にすねるぼく。
小鳥ちゃんはふしぎな魅力の持ち主だ。ぼくの所有物でもないし、彼女でもない。
でも、確実にぼくと通じ合っている。
ぼくと小鳥ちゃん。
この二人の関係を考えると、なんだか恋でも友情でもない何かを感じる。

**

追記
江國香織さんの描く冬の景色が好きになった。
以前、江國さんが翻訳した外国の絵本で「おひさまパン」を読んだ。
今回の本でもその絵本でも、江國さんは冬の景色を「町が色をうしなう」と描写していた。
その感覚がすっと胸に落ちるようで、私は好きになった。



はる

手のひらの京(綿矢りさ)

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ーなんて小さな都だろう。まるで川に浮いていたのを手のひらでそっと掬い上げたかのような、低い山々に囲まれた私の京。(p.147)
 
綿矢りさ『手のひらの京』
 
 おっとりした長女・綾香。
恋愛に生きる次女・羽依。
自ら人生を切り拓く三女・凜。
 
物語は、東京で就職したい(京都を離れたい)三女の凜を軸に、凜→羽依→綾香の順(繰り返し、最初と最後は凜)で話が進んでいく。冒頭の引用は、凜の目線で語られた言葉である。
 
「結婚」が長女の至上命題で、「恋愛」が次女の至上命題、「上京」が三女の至上命題。京都というまちで、一つ屋根の下で暮らす奥沢三姉妹それぞれの機微が丁寧に描かれている。
 
読み進めながら、凜は、綿矢さんがいちばんご自身を投影した登場人物なのではないかと感じた。京都に生まれ京都で育ち、結婚をして東京に住むことになった綿矢さんならではの故郷京都を想う気持ち。ただ好きな場所として描くのではなく、東京に出たからこそ分かる?京都ならではの閉そく感も描き出したかったのかななどと思った。
 
結婚後初の単行本だったと思うけれど、これまでの綿矢作品にはあまりなかった料理のシーンも。凜目線のパートでこんなシーンも。「私も主婦として定年を迎えます”・・・(中略)・・・二度と食事は作らないという母の宣言だった。」なかなかにセンセーショナルな響き。毎日三食料理を作らねばならない母の大変さがにじみ出ている。
 
凜の心の動きがこんな情景描写にも表れる。
「どこまでも広がる空は柔らかさを残したまま夕方を迎え、玉ねぎを炒めたきつね色に変化している。デミグラスソース色へと変わってゆくさまは、自転車に乗りながら眺めよう、と決めて凜は立ち上がった。」
この表現は京都の空を眺めながら、上京を決意する凜の気持ちが表れているように感じた。この例え方こそ、「綿矢りさ」さん!という感じで、私は大好きだ。
 
綿矢さんの小説は、彼女の歩みとともにあるというか、情景描写なんかは「蹴りたい背中」から変わらぬ綿矢スタイルだと思うけれど、物語の主題が綿矢さんが書いているときに問題意識を持っているものをものすごく反映しているというか・・・だから、目が離せない作家さんなんだあと思った。
 
京都新聞の記事によれば、昨年末には男の子も出産されているそう。いつかママ友とか子育てのことも入った小説も読めるのかなと期待している。
 
大好きな京都を、大好きな京都出身の綿矢りささんが描いたらどんな風になるんだろう。ひそかに、綿矢さんが描く京都を楽しみにしていた私にとって、装丁も帯もまるっと手のひらで包み込みたくなるような一冊。
 
本の帯には、「京都の春夏秋冬があざやかに息づく綿矢版『細雪』」近代文学好きにも谷崎ファンにも手に取ってもらえるようなキャッチコピー。この冬は、じっくり『細雪』を読もうかなぁ。『細雪』と比較してみるのも面白いのかもしれない。

 
はる

望遠ニッポン見聞録(ヤマザキマリ)

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この夏ハマった一冊。
ヤマザキマリさんのエッセイ、「望遠ニッポン見聞録」。
ヤマザキマリさんといえば、テルマエロマエの印象が強すぎて、エッセイを書かれていることさえ知らなかった。
友人が紹介してくれたことで初めて手にとったのだが、これが面白くてドはまりした。
偶然この夏は電車で移動する機会が多かったのだが、電車で読むのにぴったりな本だと感じた。
一つの小見出しで書かれる内容が、一駅の間に読める長さ(※駅の間は差はあれど)で、大変読みやすい。
ただし!一つ危険が・・・(笑)
それは、面白くて吹き出してしまうということ!
何度かこらえきれずにニヤニヤしてしまい、危険な目に遭った( `ー´)ノ
とくに私が好きな話は以下の三つである。
「ぽっとんの闇が生んだ、世界最高峰のトイレ文化」
「キレることが苦手な一億総おしん」。」
「世界を侵略する変な民芸品に注意せよ。」
また、タイトルだけで笑ってしまったのが、
「伊達男は伊太利亜にはどこ探してもおらず。」である。
いろいろな国を渡り歩いていたヤマザキさんならではの視点かつユーモラスな視点でみせる「ニッポン」論とでもいおうか。
日本では大問題と捉えられがちなことでも、お国が違えば全く気にされていないことなど、異国の文化にふれた途端に滑稽に見えてしまうこともあるのだなあと知る。
些細な悩みを吹き飛ばしてくれる一冊であった。
 

はる

京のみち

紀行文。

 

大好きな京都。京都は行くたびに新たな発見のある場所。

ここ数年、年末年始を京都で過ごしている。

京都の小径を歩いているときに流れる京の時間は格別で。

春夏秋冬―どの季節にも訪れたことがあるが、とりわけ私は冬の京都が好きだ。

 

京都の冬は芯から冷えるような寒さがある。

足の裏からひんやりと床の冷たさを感じながら、ぼんやり庭を眺める時間が私にとっては何にも代えがたい幸福な時間である。

山奥の観光客の少ないお寺さんで、静寂の中、何も考えないで美しい庭を眺めていると、心が浄われたような、心が満たされたようなそんな気分になるものだ。

 

京へ足を運ぶうちに、ふと、京の紀行文を読みたくなった。

たまたま目に入ったのが瀬戸内寂聴氏の「京のみち」であった。

嵯峨野に庵を結ぶ、という点にも惹かれた。偶然にもこれまで私が訪れたことのある場所についての記述が多くあり、情景を浮かべながら読み進めていくことができた。

京の風景をこんなにも美しい言葉で表すことができるのか、私にとっては目から鱗の表現ばかり。

 

なかでも、私が好きな章は、「京の秋」である。

今から三十年も前に書かれている文章であるのに、そこには京のことをほんの少ししか知らない私にも知っている京都があった。

 

詩仙堂は参観者があふれていて、世をすねた人の隠棲の跡にしては静かさがすでに乱されていたが、次第に人々が帰って行き、人の立ち去るにつれてやわらかくどこからともなく黄昏が滲みでてくるにつれ、漸く幽邃な世外らしい雰囲気が漂ってきた。p32」

 

「さっきまで人々に占領されていた縁側近い座敷に坐ると、庭の奥のさつきの刈りこみの樹々が、低く庭の向うにつらなり、海に向かっているような感じになる。縁側のすぐ前に、大そう大きな旧い山茶花の樹が立っていて、枝々をおびただしい白い花が飾り、まるで白炎をあげているような花あかりが、あたりを照らしていた。p32」

 

詩仙堂が30年も前から観光地化していたことも知ったし、何よりこの文章を読んで、庭と対峙した時の自分の感情も蘇ってきた。今目の前に庭が広がっているように錯覚するくらい、鮮明な映像が脳内に流れた。海に向かっているような気分になる不思議な庭だった。

 

京を旅するごとに、紀行文を読みたい。・・・そんな気持ちが沸き起こる一冊であった。

 

はる

 

 

読書感想文

読書感想文と私。

 

小学生の頃から作文を書くことは好きだった。

しかし、こと感想文になると常に苦手意識があった。

当時の私は、作文は自由に書けるが、感想文は制約があるというイメージを持っていた。正直なところ、「どう書いていいか分からない」、そんな思いが心のどこかに引っかかっていたと思う。大人になってようやく感想文とは何たるかが分かってたような気がするので、こんな記事を書く気が生まれたのかもしれない。

 

あくまで個人的な見解であるが、読書感想文とは、本の主題に対して感想を書いたもの、と考える。

第一段階として、本を読み込んで主題を読み取る。

第二段階として、自身の経験と絡ませながら主題への感想を書く。

大切なのは、あらすじと自身の経験の量の配分である。どちらか一方が多くなってもいけない。そこのバランス感覚が重要視される。

 

課題図書と私。

 

課題図書は毎年親が買ってくれたので、課題図書で感想文を書くことも多かった。

大人になって分かったことではあるが、今思えば、課題図書は子どもにとっては、主題の読みとりが難しいものが結構ある。

 

読書感想文と課題図書にまつわる、ざらざらした苦い記憶を少々ふりかえってみたい。

 

小学校一年生・・・「なぞなぞライオン」

何度も読み返した記憶があるが、はっきり言って感想文が「書きやすい」本とは言えなかった。課題図書には丸くてきらきらしたシールが貼られており、幼心にそれは、本の勲章なのかなとも思っていた。課題図書との出会いがこの本だったので、課題図書は難しいというイメージが形成されたような気もする。

 

小学校三年生・・・「ふじ山大ばくはつ」

富士山が噴火したらどうなるのか、他人事とは思えず、恐怖を感じた。今思えばその気持ちを素直に書けばよかったのだが、気取って富士山の自然を守ることをテーマに書いた気がする。

 

小学校四年生・・・「アディオス ぼくの友だち」

たしか、外国から転入生が来る話だったと思う。何を書いたか覚えていないが、この本はこれまで読んできた課題図書のなかでは、「物語」として面白味があり、何度も読み返した記憶がある。

 

小学校五年生・・・「カブトエビの寒い夏」

カブトエビを飼っていた経験と絡めて書いた。このとき感想文には、自身の体験がないと説得力が増さないものだなと感じた。

 

中学三年生・・・「少年は戦場に旅立った」

南北戦争の話。年齢を偽ってまで入隊した主人公が見た凄惨な光景。

この本の記述は大きな衝撃で、先を読み進めるのもつらかった。「戦争の恐ろしさ」なんて一言で片づけてはいけないとも思ったし、命について考えさせられた。戦争が終わっても、後遺症に苦しむ人々にとって戦争は終わっていないことも知った。

 

高校一年生・・・「泣き虫しょったんの奇跡」

高校二年生・・・「荷抜け」

 

これは言い訳にしかならないが、高校生になると、感想文は夏休みの課題となり、受験勉強もあったため、感想文に時間を割くこともあまりなく「課題の一つ」で終わったような記憶しかない。すみません。

 

以上、九月に書いた記事が下書きにあったので投稿してみました。

 

 

はる

 

 

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(村上春樹)

ボブ・ディラン氏のノーベル文学賞のニュースを聞いて、私は、真っ先に村上春樹氏の『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の一説が思い浮かんだ。

 

「私は目を閉じて、その深い眠りに身をまかせた。ボブ・ディランは『激しい雨』を唄いつづけていた。」

 

読後、脳裏にこびりついて離れない文。衝撃的だった。

 

初めて「ボブ・ディラン」という単語(あえて単語とする)を知った。小説の中にあまりに何度も出てくるものだから、その語感にはまってインターネットで検索をし、そこで初めて実在する歌手の名前であることを知ったのである。世代的になじみも薄く、歌もまったく知らない。だが、村上氏の小説のなかでもひときわ存在感を放っていたことは確かであった。

 

村上春樹氏の小説に出てきた人物が、文学賞をとったようなふしぎな感覚になった。それくらい、この小説の重要な要素であった。

 

さて、ボブ・ディラン氏の話はこれくらいにして。

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドで、気に入っているセンテンスを紹介したい。三年前に文庫を購入したときに、キャンペーンで「ワタシの一行」という付箋が付いてきた。せっかくだから使おうとして、三年前に貼ったものである。いま読み返すとなぜそこに貼ったんだ?というものもあるが・・・

 

1「他人から教えてもらったことはそこで終ってしまうが、自分の手で学びとったものは君の身につく。」(上巻p.173)

 

2「何が僕を規定し、何が僕を揺り動かしていのかを知りたいんだ。」(上巻p.243)

 

3「想像というのは鳥のように自由で、海のように広いものだ。誰にもそれをとめることはできない。」(上巻p.277)

 

4「戦いや憎しみや欲望がないということはつまりその逆のものがないということでもある。それは喜びであり、至福であり、愛情だ。絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ。」(下巻p.260)

 

5「人間の行動の多くは、自分がこの先もずっと生きつづけるという前提から発しているものなのであって、その前提をとり去ってしまうと、あとにはほとんど何も残らないんだ。」(下巻p.282)

 

6「世界には涙を流すことのできない哀しみというものが存在するのだ。それは誰に向って説明することのできない哀しみというものが存在するのだ。それは誰にも理解してもらうことのできない種類のものなのだ。その哀しみはどのような形に変えることもできず、風のない夜の雪のようにただ静かに心に積っていくだけのものなのだ。」(下巻p.393)

 

7「公正さは愛情に似ている。与えようとするものが求められているものと合致しないのだ。」(下巻p.395)

 

日々目の前に降りかかってくることに対峙していると、人間が限られた時間で生きていることを忘れてしまう。自分にもいつか深い眠りに身をまかせるときがくるという当たり前の現実が、冬朝の雪道でつま先から芯まで冷えていくような感覚を伴って、私の中に入ってきた。生きているとどうしようもない哀しみに出会うことがあるけれど、どんなに叫んでも、他人に助けを求めても、その人自身が乗り越えていかなければならないものでもあるんだなあとも思った。人間は一人で生まれて一人で死んでいくのだなと、しみじみと感じた。そのときがくるまで、ちょっと人生悪あがきしてみるのも悪くない。

 

はる