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読書の旅

私にとって「読書」とは何かを考えます。

京のみち

紀行文。

 

大好きな京都。京都は行くたびに新たな発見のある場所。

ここ数年、年末年始を京都で過ごしている。

京都の小径を歩いているときに流れる京の時間は格別で。

春夏秋冬―どの季節にも訪れたことがあるが、とりわけ私は冬の京都が好きだ。

 

京都の冬は芯から冷えるような寒さがある。

足の裏からひんやりと床の冷たさを感じながら、ぼんやり庭を眺める時間が私にとっては何にも代えがたい幸福な時間である。

山奥の観光客の少ないお寺さんで、静寂の中、何も考えないで美しい庭を眺めていると、心が浄われたような、心が満たされたようなそんな気分になるものだ。

 

京へ足を運ぶうちに、ふと、京の紀行文を読みたくなった。

たまたま目に入ったのが瀬戸内寂聴氏の「京のみち」であった。

嵯峨野に庵を結ぶ、という点にも惹かれた。偶然にもこれまで私が訪れたことのある場所についての記述が多くあり、情景を浮かべながら読み進めていくことができた。

京の風景をこんなにも美しい言葉で表すことができるのか、私にとっては目から鱗の表現ばかり。

 

なかでも、私が好きな章は、「京の秋」である。

今から三十年も前に書かれている文章であるのに、そこには京のことをほんの少ししか知らない私にも知っている京都があった。

 

詩仙堂は参観者があふれていて、世をすねた人の隠棲の跡にしては静かさがすでに乱されていたが、次第に人々が帰って行き、人の立ち去るにつれてやわらかくどこからともなく黄昏が滲みでてくるにつれ、漸く幽邃な世外らしい雰囲気が漂ってきた。p32」

 

「さっきまで人々に占領されていた縁側近い座敷に坐ると、庭の奥のさつきの刈りこみの樹々が、低く庭の向うにつらなり、海に向かっているような感じになる。縁側のすぐ前に、大そう大きな旧い山茶花の樹が立っていて、枝々をおびただしい白い花が飾り、まるで白炎をあげているような花あかりが、あたりを照らしていた。p32」

 

詩仙堂が30年も前から観光地化していたことも知ったし、何よりこの文章を読んで、庭と対峙した時の自分の感情も蘇ってきた。今目の前に庭が広がっているように錯覚するくらい、鮮明な映像が脳内に流れた。海に向かっているような気分になる不思議な庭だった。

 

京を旅するごとに、紀行文を読みたい。・・・そんな気持ちが沸き起こる一冊であった。

 

はる