読書の旅

私にとって「読書」とは何かを考えます。

京都で行ってみたい本屋さん

恵文社一乗寺店

雑貨やこだわりの本が並ぶ、本にまつわるあれこれのセレクトショップ

次に京都へ行ったら行ってみたいなあ!

http://www.keibunsha-store.com/

 

②これは本屋さんではないけれど・・・

今話題のBOOK AND BED TOKYO のKYOTO店

泊まれる本屋さん。でも本は販売していません。

①の恵文社さんが選んだ本が3200冊読み放題。

大好きな本を読みながら寝落ちるしあわせな感覚を味わうというのがコンセプトみたい。

カードのみの決済だそうです。

宿泊は大人気だそうなので、デイタイムで利用してみたいなあ!

bookandbedtokyo.com

ロンドンブックスさん

京都嵐山にあるロンドンブックスさん。

昨日紹介した、『錦繡』を買ったお店です。

時雨殿から、JR嵯峨嵐山駅へ戻る途中に寄りました。

とってもおしゃれな店内で、美術書や人文書も充実していました。観光地ならではの京都本コーナーも。また、嵐山へ行く機会があったら足を運びたいお店です。

 

http://londonbooks.jp/about.html

 

はる

錦繡(宮本輝)

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美しい。

とにかく言葉が美しい。
書簡体で綴られたこの小説の最大の魅力は、日本語の美しさであると思う。
こんなにも美しい日本語がこの世に存在したのかというほど、感嘆した。
一組の男女の往復書簡であるから、漢語体で書かれたような堅苦しさがない。
平易な日本語を使っているのに、紡ぎ出される文章の美しさに舌を巻かずにはいられなかった。

「前略 蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再開するなんて、本当に想像すら出来ないことでした」

女が送った一通の手紙は、それまで止まっていた二人の時間を動き出させる。
お互いの知らない過去を手紙で埋め合うことで、次第に二人は「今」に目を向けられるようになる。
互いに対して抱いていた思い込みは、相手にとっての真実とは違っていた。
少しずつ掛け違えていたボタンが、なおっていくような感覚。
読者は、二人の手紙を読みながら、手紙の宛先の人間になったつもりでその真実を知っていく。
掛け違っていったボタンが直っていっても、二人は人生のなかでは交わることがない。
けれど、手紙のなかでは、最初に互いの心に渦を巻いていた怒りや哀しみのようなものが次第に色が薄くなっていくのが分かる。
決して消えるわけではない。けれど、何かどす黒い得体のしれないものが、やわらかな光に包まれた明るいものになっていくのだ。
「みらい」はどうなるかわからないけれど、「今」を見つめることができるようになったのは紛れもなく手紙を綴ることによって得たものだ。

それが女のこの手紙に表れている。
「過去なんて、どうしようもない、過ぎ去った事柄にしかすぎません。でも、厳然と過去は生きていて、今日の自分を作っている。けれども、過去と未来の間に「今」というものが介在していることを、私もあなたも、すっかり気づかずにいたような気がしてなりません。(p192)」


読後のこの感覚を心のなかにしまっておきたいので、ここらへんで。


はる


追記。
京都嵐山で偶々友達と入ったおしゃれな古本屋さん(ロンドンブックス)で買った本です。以前より、そのお友達に薦めていただいていた本でした。
その本を手に入れるまでのエピソードって、なんだか、その本をより一層愛着あるものにしてくれますね。

ぼくの小鳥ちゃん(江國香織)

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冬の朝、ホットコーヒーを飲みながら窓辺で読みたい本。

主な登場人物は、ぼく、小鳥ちゃん、ぼくの彼女である。
ある雪の朝、ぼくの部屋に小鳥ちゃんがやってきた。
この小鳥ちゃん、ラム酒のかかったアイスクリームが好きだっていうから只者じゃない。
しかも、妙に色っぽい。
小鳥ちゃんは、彼女がぼくの部屋に来ると、決まって写真立てを倒す。
素直になれないところがいじらしい。
おいおい、ぼくよ、なぜそんなにもスムーズに小鳥ちゃんを招き入れてるのだ?と彼女だったら思ってしまいそう。
ぼくと彼女が手をつないでスケートをすれば、小鳥ちゃんは不機嫌になり、ぼくは小鳥用のスケート靴を作る。
なんだろう、この関係・・・恋ではないけど、ふしぎな感覚。
小鳥ちゃんが階上の家へママレードを煮た日に行っていることを知って、微妙にすねるぼく。
小鳥ちゃんはふしぎな魅力の持ち主だ。ぼくの所有物でもないし、彼女でもない。
でも、確実にぼくと通じ合っている。
ぼくと小鳥ちゃん。
この二人の関係を考えると、なんだか恋でも友情でもない何かを感じる。

**

追記
江國香織さんの描く冬の景色が好きになった。
以前、江國さんが翻訳した外国の絵本で「おひさまパン」を読んだ。
今回の本でもその絵本でも、江國さんは冬の景色を「町が色をうしなう」と描写していた。
その感覚がすっと胸に落ちるようで、私は好きになった。



はる

手のひらの京(綿矢りさ)

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ーなんて小さな都だろう。まるで川に浮いていたのを手のひらでそっと掬い上げたかのような、低い山々に囲まれた私の京。(p.147)
 
綿矢りさ『手のひらの京』
 
 おっとりした長女・綾香。
恋愛に生きる次女・羽依。
自ら人生を切り拓く三女・凜。
 
物語は、東京で就職したい(京都を離れたい)三女の凜を軸に、凜→羽依→綾香の順(繰り返し、最初と最後は凜)で話が進んでいく。冒頭の引用は、凜の目線で語られた言葉である。
 
「結婚」が長女の至上命題で、「恋愛」が次女の至上命題、「上京」が三女の至上命題。京都というまちで、一つ屋根の下で暮らす奥沢三姉妹それぞれの機微が丁寧に描かれている。
 
読み進めながら、凜は、綿矢さんがいちばんご自身を投影した登場人物なのではないかと感じた。京都に生まれ京都で育ち、結婚をして東京に住むことになった綿矢さんならではの故郷京都を想う気持ち。ただ好きな場所として描くのではなく、東京に出たからこそ分かる?京都ならではの閉そく感も描き出したかったのかななどと思った。
 
結婚後初の単行本だったと思うけれど、これまでの綿矢作品にはあまりなかった料理のシーンも。凜目線のパートでこんなシーンも。「私も主婦として定年を迎えます”・・・(中略)・・・二度と食事は作らないという母の宣言だった。」なかなかにセンセーショナルな響き。毎日三食料理を作らねばならない母の大変さがにじみ出ている。
 
凜の心の動きがこんな情景描写にも表れる。
「どこまでも広がる空は柔らかさを残したまま夕方を迎え、玉ねぎを炒めたきつね色に変化している。デミグラスソース色へと変わってゆくさまは、自転車に乗りながら眺めよう、と決めて凜は立ち上がった。」
この表現は京都の空を眺めながら、上京を決意する凜の気持ちが表れているように感じた。この例え方こそ、「綿矢りさ」さん!という感じで、私は大好きだ。
 
綿矢さんの小説は、彼女の歩みとともにあるというか、情景描写なんかは「蹴りたい背中」から変わらぬ綿矢スタイルだと思うけれど、物語の主題が綿矢さんが書いているときに問題意識を持っているものをものすごく反映しているというか・・・だから、目が離せない作家さんなんだあと思った。
 
京都新聞の記事によれば、昨年末には男の子も出産されているそう。いつかママ友とか子育てのことも入った小説も読めるのかなと期待している。
 
大好きな京都を、大好きな京都出身の綿矢りささんが描いたらどんな風になるんだろう。ひそかに、綿矢さんが描く京都を楽しみにしていた私にとって、装丁も帯もまるっと手のひらで包み込みたくなるような一冊。
 
本の帯には、「京都の春夏秋冬があざやかに息づく綿矢版『細雪』」近代文学好きにも谷崎ファンにも手に取ってもらえるようなキャッチコピー。この冬は、じっくり『細雪』を読もうかなぁ。『細雪』と比較してみるのも面白いのかもしれない。

 
はる

望遠ニッポン見聞録(ヤマザキマリ)

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この夏ハマった一冊。
ヤマザキマリさんのエッセイ、「望遠ニッポン見聞録」。
ヤマザキマリさんといえば、テルマエロマエの印象が強すぎて、エッセイを書かれていることさえ知らなかった。
友人が紹介してくれたことで初めて手にとったのだが、これが面白くてドはまりした。
偶然この夏は電車で移動する機会が多かったのだが、電車で読むのにぴったりな本だと感じた。
一つの小見出しで書かれる内容が、一駅の間に読める長さ(※駅の間は差はあれど)で、大変読みやすい。
ただし!一つ危険が・・・(笑)
それは、面白くて吹き出してしまうということ!
何度かこらえきれずにニヤニヤしてしまい、危険な目に遭った( `ー´)ノ
とくに私が好きな話は以下の三つである。
「ぽっとんの闇が生んだ、世界最高峰のトイレ文化」
「キレることが苦手な一億総おしん」。」
「世界を侵略する変な民芸品に注意せよ。」
また、タイトルだけで笑ってしまったのが、
「伊達男は伊太利亜にはどこ探してもおらず。」である。
いろいろな国を渡り歩いていたヤマザキさんならではの視点かつユーモラスな視点でみせる「ニッポン」論とでもいおうか。
日本では大問題と捉えられがちなことでも、お国が違えば全く気にされていないことなど、異国の文化にふれた途端に滑稽に見えてしまうこともあるのだなあと知る。
些細な悩みを吹き飛ばしてくれる一冊であった。
 

はる

京のみち

紀行文。

 

大好きな京都。京都は行くたびに新たな発見のある場所。

ここ数年、年末年始を京都で過ごしている。

京都の小径を歩いているときに流れる京の時間は格別で。

春夏秋冬―どの季節にも訪れたことがあるが、とりわけ私は冬の京都が好きだ。

 

京都の冬は芯から冷えるような寒さがある。

足の裏からひんやりと床の冷たさを感じながら、ぼんやり庭を眺める時間が私にとっては何にも代えがたい幸福な時間である。

山奥の観光客の少ないお寺さんで、静寂の中、何も考えないで美しい庭を眺めていると、心が浄われたような、心が満たされたようなそんな気分になるものだ。

 

京へ足を運ぶうちに、ふと、京の紀行文を読みたくなった。

たまたま目に入ったのが瀬戸内寂聴氏の「京のみち」であった。

嵯峨野に庵を結ぶ、という点にも惹かれた。偶然にもこれまで私が訪れたことのある場所についての記述が多くあり、情景を浮かべながら読み進めていくことができた。

京の風景をこんなにも美しい言葉で表すことができるのか、私にとっては目から鱗の表現ばかり。

 

なかでも、私が好きな章は、「京の秋」である。

今から三十年も前に書かれている文章であるのに、そこには京のことをほんの少ししか知らない私にも知っている京都があった。

 

詩仙堂は参観者があふれていて、世をすねた人の隠棲の跡にしては静かさがすでに乱されていたが、次第に人々が帰って行き、人の立ち去るにつれてやわらかくどこからともなく黄昏が滲みでてくるにつれ、漸く幽邃な世外らしい雰囲気が漂ってきた。p32」

 

「さっきまで人々に占領されていた縁側近い座敷に坐ると、庭の奥のさつきの刈りこみの樹々が、低く庭の向うにつらなり、海に向かっているような感じになる。縁側のすぐ前に、大そう大きな旧い山茶花の樹が立っていて、枝々をおびただしい白い花が飾り、まるで白炎をあげているような花あかりが、あたりを照らしていた。p32」

 

詩仙堂が30年も前から観光地化していたことも知ったし、何よりこの文章を読んで、庭と対峙した時の自分の感情も蘇ってきた。今目の前に庭が広がっているように錯覚するくらい、鮮明な映像が脳内に流れた。海に向かっているような気分になる不思議な庭だった。

 

京を旅するごとに、紀行文を読みたい。・・・そんな気持ちが沸き起こる一冊であった。

 

はる